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低迷が続く日本の株式市場    横尾宣政

| 未分類 | 2022年1月17日 |

低迷が続く日本の株式市場     横尾宣政

 証券会社に就職が決まった時、大学祭に来ていた他校の女子大生らに「何故、そんな会社に入るの?他に入るところがなかったの?」と聞かれ、「都銀、数行は決まった」と言うと、不思議そうな顔をされたのを覚えている。それ程、証券会社は認められておらず、社会的に地位の低い存在だったのである。当然、両親も大反対だった。

 78年に野村證券に入社した168人(大卒)のうち、翌年まで残ったのは100人を切っており、北陸3支店(金沢、福井、富山)に配属された6人のうち残ったのは私を含む金沢の2人だけだった。証券営業マンが夜討ち朝駆けで酷使されていた時代である。92年に野村證券の業務改革委員会(鈴木正志会長以下9名)で調べた時も、野村證券の営業マンの平均寿命は61歳と、日本の平均寿命を大きく下回っていた。

 70年代の証券会社は、地域ごとに割られた本部ごとに、株価の近い複数(通常は2銘柄)の銘柄を決めて、それを顧客に販売しながら株価を上げていくやり方で手数料を稼いでいた。顧客がある程度の株数を買った時点で、本部が指示を出してきて、支店同士で株式を交換していく。このやり方でいくと、誰かが天井(最高値)で買うことになるが、通常は成績の悪い支店が買い取らされることになった。時には系列の投資信託会社に買い取らせることもあったが、当時の投資信託の運用成績が悪かったのは当然だったと言える。

 方法は邪道でも、常時何百という銘柄が買い上げられていけば、日経平均は自然に上がっていく。少なくとも70年代までは、このような大手証券会社の強引な営業戦略と、その合間を縫ってうごめく仕手株グループによって、日本の株式市場は支えられてきた。そのような中で野村證券は、昭和40年の不況時に設立した「野村総合研究所(NRI)」を活用した戦略を立て始める。

 NRIは鎌倉に本社を置き、純粋な理科系の研究部門と、マクロ・アナリストやミクロ・アナリストを抱えた経済部門に分かれていた。当時は、制癌剤の研究にも手を広げていたが、大卒の高給取りが実験動物の飼育まで行っていた為に採算が合わなくなり、結局は経済研究所に特化していく。当時の日本には、S&Pやムーディ―ズの債券格付けで最上格(トリプルA)を取れる会社はなかったが、格付けを知らない人間が大半だったから、そのようなものに関心もなかった。

 そのような中で、野村證券は、78年頃に日本企業の格付け取得を支援する計画を立て、NRIに特別チームを作った。その対象となった企業が日立製作所である。かなりの悪戦苦闘の結果、何とか日立はトリプルAを獲得した。それと同時に始まったのが「日本の株は木曾檜」作戦である。

 当時、世界中がオイル・ショックで大変な状況になっており、石油を輸入に頼っている日本も例外ではなかった。それを逆手に取って、産油国の金を「これからの日本を支えるハイテク産業」に投資させようと考えたのである。実際に、中東各国のトップ外交が始まり、サウジアラビア通貨庁(SAMA)を初めとした各国通貨庁が日本のハイテク株に巨額の資金を投資し始めた。

 作戦は見事に成功し、日立、東芝、三菱電機、ソニー、パイオニア、日本電気、富士通、沖電気、松下などのハイテク株が大きく値を上げた。

 我々、若手営業マンは研修センターに集められ、NRIのアナリストから「日本の株は木曾檜」の講義を受け、日立製作所の半導体工場を見学し、大いに感動した。当然、日立株購入の目標数字も与えられたが。この時の研修のお陰で、アナリスト・レポートを見るという習慣が身に付いた。群馬銀行の頭取に「社会人として成功するかどうかは、入社した時の環境と先輩の良し悪しで決まる」と言われたことがあるが、まさにその通りだと思う。

 戦後、高度成長期に至るまで、日本の証券会社は「将来を予見して、日本を支える企業を支援する」と言う使命感を持っていた。すなわち、株価を高くしながら、ファイナンスによってコストの安い資金を提供するということである。

 電気の通じていない山奥にまで外交しながら、やがて来るだろう電気の時代を語って東京電力の社債を買ってもらったり、モータリゼーションの時代が来なければならないと言って、額面以下の株価だったトヨタに額面発行の増資を提案し、それを全額引き受けたりした。

 当時の資金力のない日本企業にとって、上場することは会社を発展させる最大の武器であった。それ故、日本の証券会社には、欧米にない「事業法人部」という特殊なセクションが出来上がった。このやり方は、日本企業を大きく発展させていった。

 その根底にあるのは「日本を支える、躍進する企業」であり、その考え方は株式投資における基本概念になっていった。アナリスト全員が「夢の技術」「増益企業」を追いかけ続けた。一方で、この流れは、日本の投資スタンスをマンネリ化させていった。それが、今の日本の株式を低迷させているのかもしれない。

 確かに「夢の技術」で躍進が期待できる企業、「明日の業績」が大きく伸びる企業、そのような成長神話で株を考えることは間違っていないが、その観点でしか企業を評価しない人間ばかりになると、経済成長が鈍化した時点で株は死に体になってしまい、株価上昇は見込めなくなってしまう。

 米国は、1960年から1980年まで、何度も景気後退を経験し、1979年には「株式の死」とまで言われる状態に陥った。しかし、前回「20年のボックス相場を脱却したんNYダウ」で述べたように、米国はその後1981年以降のメガ・ディ―ル(巨額の企業買収)時代を迎え、ボックス相場を貫く上昇相場が到来した時、「成長一辺倒の価値感」から脱皮し、「個々の企業を全方位で検証する」という新しい考え方が生まれた。 TOBに対する期待感(マーケットの価格と買収価格とのギャップ探し)が高まり、その結果として、マーケット全体がTOBにおける買収価値に近づいていった。

 事実、米国のディール数(買収件数)は拡大し、86年には133件にまで増加した。それを受けて、米国議会でLBO禁止の動きが起こり、ブラック・マンデーという史上最大の暴落が起きてしまった(一般的には、原油価格の高騰や金利上昇が原因とされている)。その結果、暴落による割安感がかえって更なるディ―ル数増加を招き、翌年は182件となった。

 このように、米国における株の考え方はTOBによって大きく変化した。そのことは、株式市場の動きからも立証できる。日本が最高値を付けた1989年末を基準にすると、NYダウは2750ドルから現在13倍の36,000ドルまで上昇している。すなわち、年率8.6%(複利)で上昇した計算ことになるが、31年間それ程の経済成長を続けていた筈はない。米国の株式市場が成長率だけでなく、別の新しい価値観を身に付けたことの現れである。

 一方、日本のGDP成長率は第一次証券不祥事が起こった92年を境に急激に低下し、その後は1%台が続くという、株式市場にとって最悪な環境になっている。従来の「成長神話」で投資を考える限り、新値を取って上昇を続けるのは困難だ。何らかの理由で日本企業が急成長を遂げるか、価値観を変えるダイナミックなTOB合戦が始まるかしか可能性はないのだろうか。

 次回は、過去の事例からこの点について考えていきたい。

横尾宣政