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南北朝時代における天皇家  その4

| 歴史・宗教編 | 2019年10月30日 |

 また少し話が戻りますが、1333年に後醍醐天皇が新政を行う「建武の新政」となったため、当然に持明院統の光厳天皇は廃位となり、三種の神器も後醍醐天皇に戻されました。

 ここで後醍醐天皇自身が、三種の神器とともに正式に皇位に就いていた光厳天皇の即位を認めず、即位しなかった皇太子として上皇の称号だけを与えました。後醍醐天皇もいったん退位してもう一度皇位に就いた重祚(ちょうそ、7~8世紀に2度前例があります)ではなく、即位からずっと皇位にあったとしてしまいました。

 そのため1331年から約1年半の間、天皇が2人いたことになってしまいました。ここに光厳天皇は北朝の初代天皇となり、万世一系であるはずの天皇の系譜が2つに分かれる南北朝時代が始まったことになります。

 しかし「建武の新政」は早くも1336年に瓦解し足利尊氏が室町幕府を開きますが、鎌倉幕府(北条氏)に続いて室町幕府(足利氏)が引き続き皇位継承を主導することになりました。

 まず足利尊氏は1336年に後醍醐天皇を退位させ、光厳上皇の同母弟である光明天皇(北朝2代目)を即位させます。この時点で足利尊氏は、後醍醐天皇に対し再び「両統迭立」を持ち掛け、しぶしぶ納得した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に引き渡しました。

 ところが後醍醐天皇は幽閉されていた京を脱出して吉野に移り、引き渡した三種の神器は偽物で、あくまでも自分(後醍醐天皇)が正統の天皇であると宣言し、吉野に南朝(吉野朝廷)を開きます。

 ここで名実ともに南北朝時代が始まり、1392年に3代将軍・足利義満が主導して南朝の後亀山天皇が、北朝6代の後小松天皇に三種の神器とともに譲位するまで続くことになります。この時点においても足利義満は「両統迭立」としていたようですが、そこから現在に至るまですべて北朝の天皇が即位されています。

 つまり1336~1392年の56年間(あるいは1331~1392年の61年間)は、万世一系であるはずの天皇の系譜が、2つ並立していたことになります。ここで当然に南朝と北朝のどちらが正統であるかの議論が後世まで延々と続くことになります。

 その結論は1911年(明治44年)に明治天皇の裁可により、南朝が正統であるとされました。唯一の理由は、その間は正式な三種の神器が南朝にあったからです。ここまでも書いてきたように三種の神器が天皇の権威そのものであり、それは現在に至るまで変わっていません。

 かくして天皇の系譜は、第96代・後醍醐天皇、97代・後村上天皇、98代・長慶天皇、99代・後亀山天皇と南朝の天皇が正統として加えられることになりました。

 一方で北朝天皇は、1331年に即位した初代・光厳天皇、2代・光明天皇、3代・崇光天皇、4代・後光厳天皇、5代・後円融天皇と続き、6代・後小松天皇が1392年に三種の神器とともに後亀山天皇から譲位され、そのまま100代天皇となり現在に至ります。

 確かに南北朝時代においては、正式な三種の神器が手元になかった北朝5代の天皇が、天皇の系譜から外れて「傍系」のように見えています。しかしこの時代は室町幕府が引き続き後ろ盾となっていた北朝天皇が、歴史の表舞台に出ていたはずです。

 逆に天皇の系譜に連なっている後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と続く南朝天皇は、後醍醐天皇はともかくとして歴史の中に埋もれたままとなっています。

 それではその南朝とはどういう存在で、どういう活動を行い、その後どうなっていったのでしょう?

 その前に足利尊氏と室町幕府について簡単に解説しておきます。1333年に「建武の新政」となったものの、たちまち全国の武将に失望が広がり、軍功の認定を求めて鎌倉幕府の倒幕を主導した足利尊氏を頼るようになります。

 危機感を抱いた後醍醐天皇も、最年長の皇子である護良親王(もりよししんのう)に命じて新田義貞や北畠親房ら有力武将を集結させようとします。しかしここで後醍醐天皇がまたしても足利尊氏が囁いた「護良親王に謀反の疑いがある」を真に受けてしまい、尊氏に護良親王を捕らえさせてしまいます。

 護良親王といえば、後醍醐天皇が隠岐に配流となったとき、鎌倉幕府打倒を命じる令旨(りょうじ)を全国の有力武将に送り、「建武の新政」の最大功労者だったはずです。しかしすべての権限を掌握したい後醍醐天皇から見れば、それすら「自らの権限を奪う看過できない行為」と映っていたかもしれません。

 後醍醐天皇は皇子である護良親王より、「その辺を察知して利用した」足利尊氏を信用してしまったことになりますが、結局はその尊氏に引導を渡されてしまいました。

 しかし偽物の三種の神器を引き渡した後醍醐天皇が京を脱出して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、そこで遅ればせながら尊氏討伐を全国に呼び掛けますが時すでに遅く、1339年に失意のうちに亡くなりました。亡くなる直前に皇子の後村上天皇に譲位しています。

 一方で足利尊氏は1336年に施政方針となる建武式目を制定し、この時点をもって室町幕府が成立したことになっています。ところがこれは何事も形式にこだわる日本の歴史では「かなりいい加減」な決め方であり、鎌倉幕府も江戸幕府も初代将軍が征夷大将軍に任命された時点で成立としています。尊氏は1338年に北朝の光厳上皇によって征夷大将軍に任命されています。

 確かに足利尊氏は鎌倉幕府の倒幕にも、「建武の新政」にも、その「建武の新政」の瓦解にも、それぞれ功績(陰謀)があったことになり、同時に天皇の系譜が2つに分かれる南北朝時代も引き起こしてしまいました。

 この辺を合わせて尊氏は日本の歴史では「逆賊」とされ、室町幕府そのものや南北朝時代を終結させた足利義満とともに歴史の表舞台にほとんど出てきません。その最大の理由は、南朝(後醍醐天皇のこと)に深く関わりすぎて、天皇の系譜が2つに分かれた南北朝時代を引き起こしてしまったからです。

 そこで南朝についてです。

 まず南朝の拠点ですが、京を脱出した後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町、奈良県の中部)の金峰山(きんぶせん)にある実城寺を改名して「金輪王寺」とし、吉野行宮(よしのあんぐう)とします。

 その周辺は修経者が修行する山奥であり、簡単に足利勢力が攻め込めないことと、その時点で南朝側勢力であった河内の楠木氏、伊勢の北畠氏などの領地からも近かったからです。

 後醍醐天皇が亡くなった後は、南朝は後村上天皇を奉じて北畠親房らが北朝討伐を主導するものの、1348年に足利家の執事である高師直(こうのもろなお)に攻められ、吉野も奪われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市、吉野より南で和歌山県北部と接しています)に拠点を移します。

 ところでそのころの足利幕府は足利尊氏・高師直と尊氏の実弟である足利直義の対立が激化し、やがて全国的な戦乱となる観応の擾乱(かんのうのじょうらん)となります。そして南朝側についた直義が優勢となりますが、巻き返しを図る尊氏は1351年に南朝と一時的に和睦します。

 直後に尊氏が鎌倉に逃げた直義を追い謀殺してしまいますが、その間隙をついて南朝勢力が北朝御所を襲い、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、それに皇太子の直仁親王を拉致してしまいました。

 その際に北朝の三種の神器(後醍醐天皇が引き渡した偽物だったはずですが)まで持ち出されてしまったため、北朝が完全に機能不全となってしまいました。尊氏はやむなく拉致されたままの崇光天皇を廃し(歴史書では拉致された時点で退位して上皇となったことにしています)、その異母弟で仏門に入ることになっていた弥仁親王を北朝4代・後光厳天皇として即位させます。

 南朝側も弥仁親王が皇位を継ぐ可能性を認識しており、一緒に拉致しようと探しましたが、側近の機転で難を逃れたようです。そうでなければ天皇の系譜をはるかに遡って皇位継承者を探し出さなければならないところでした。

 この時点で一時的に勢いを取り戻していた南朝ですが、間もなく中心人物だった北畠親房が亡くなり、1353年に南朝は後村上天皇を奉じて賀名生(あのう)を捨て、河内金剛寺に移ります。

 その後の南朝は衰退する一方となり、拉致していた三上皇らも1363年に解放しています。

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