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南北朝時代における天皇家  その3 

| 歴史・宗教編 | 2019年10月28日 |

 少し話は戻りますが、鎌倉幕府(北条家)は源実朝が暗殺されると摂関家から幼少の九条頼経、次いで九条頼嗣(頼経の息子)を迎えて傀儡将軍としていましたが、徐々に実家である九条家の鎌倉幕府に対する影響力が増すことを恐れるようになりました。北条家は藤原一門である九条家の権威のもとに有力御家人が集まってしまう可能性を懸念していたようです。

 そこで「一層のこと」天皇家から皇子を迎えて傀儡将軍にしてしまおうと考えました。北条家は承久の変に直接関与していなかった土御門上皇の皇子である後嵯峨天皇の即位を後押しした関係で、後嵯峨上皇の後ろ盾となっていたからです。

 後嵯峨上皇には事実上の長子に宗尊親王がいましたが、母親の実家の身分が低かったため皇位に就いていませんでした。そこで執権の北条時頼は1252年に10歳の宗尊親王を迎えて第6代将軍とします。すでに宗尊親王の異母弟である後深草天皇は即位しており(1246年)、後の亀山天皇も誕生していたため(1249年)スムーズに話が進みました。

 さらに1266年には惟康親王(これやすしんのう、宗尊親王の皇子)と交代させますが、もちろんどちらも傀儡将軍でした。かつて後鳥羽上皇が源実朝の後継として皇子を将軍に据えて鎌倉幕府も支配しようと考えましたが、承久の変(1221年)を境に天皇家と北条家の力関係が完全に逆転していました。

 また天皇家は平安時代から広大な荘園が寄進されており、とくに11世紀後半に藤原家の勢力が衰えると藤原一門を凌ぐ荘園(御領)を維持して財政基盤もしっかりしていました。承久の変後も北条家はさすがに天皇家の御領には手を付けなかったため、後嵯峨上皇は後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)それぞれにかなりの荘園(御領)を相続させることができていました。

 しかし両統の対立からやがて南北朝時代、さらに室町幕府、戦国時代となるに従い広大な荘園(御領)は徐々に武家勢力に奪われ、戦国時代末期あるいは江戸幕府となる頃にはほとんどなくなってしまいました。当然に天皇家や公家の生活も困窮するようになり、ますます武家勢力との力関係が広がっていくことになります。

 さて御嵯峨法皇が亡くなった後は、皇位継承を委ねられた鎌倉幕府(北条家)も1274年と1281年の元寇で「それどころ」ではなく、安直に「両統から交代で10年程度を目途に皇位に就きましょう」としたため、しばらくは両統迭立(りょうとうてつりつ)の時代となりました。

 正確には大覚寺統の後宇多天皇(亀山上皇の皇子)、持明院統の伏見天皇(後深草上皇の皇子)と後伏見天皇(伏見上皇の皇子)、大覚寺統の後二条天皇(後宇多上皇の皇子)、持明院統の花園天皇(伏見上皇の皇子)と続き、1319年に大覚寺統の後醍醐天皇(後宇多上皇の皇子)が即位しました。ほぼ両統迭立となっていたことになります。

 この時代でも天皇は比較的幼少の皇子が就いていたため、当然に天皇経験者の上皇が院政を敷きますが、この院政も両統迭立となりました。後醍醐天皇が即位したとき、持明院統の伏見上皇に代わって大覚寺統の後宇多上皇が再び院政を敷くことになりました。

 ここでこの時代を南北朝時代と呼ぶわけではありません。両統から交代で天皇や院政を敷く上皇が出たとしても、全体を見れば万世一系が保たれているからです。

 そして後醍醐天皇は、この時代には珍しく32歳で即位し大覚寺統の中でもワンポイントと考えられていました。しかし後醍醐天皇にはすでに護良親王など皇子がおり、当然に自らの皇子を皇位につけて院政を敷き、長く朝廷の権力を掌握したいと考えます。

 またこの時代になるとさすがに鎌倉幕府も弱体化していました。最大の要因は元寇を退けたものの外国勢力なので恩賞とすべき領地獲得がなく、またその後は比較的平和で戦争がなく新たな恩賞とする領地もなく、だんだん有力御家人の間で不満が累積されていたからです。

 また鎌倉幕府(北条家)は1288年にすでに亡くなっていた後深草法皇の末皇子である久明親王を第8代将軍、1308年に守邦親王(久明親王の皇子)を第9代将軍(鎌倉幕府最後の将軍)に迎えていましたが、さすがに天皇家から迎えた将軍の権威も効果がなくなっていたようです。

 そうこうしているうちに院政を敷いていた後宇多上皇が1324年に亡くなり、後醍醐天皇が親政を行うようになりますが、何しろこのままでは数年後には持明院統に皇位を返さなければなりません。またその後に大覚寺統に皇位が戻ってきても、すでに次の天皇もほぼ決まっており(異母兄の後二条天皇の皇子である邦良親王が有力候補)、このままでは後醍醐天皇が院政を敷く可能性はなくなってしまいます。

 親政を行うようになった後醍醐天皇は家柄にとらわれず人材を登用するなど、それなりに政治を改革していましたが、やはり両統迭立の解消、天皇中心の政治を求めて討幕を考えるようになります。

 そこでまず京に近い武家を抱き込み六波羅探題を襲う計画を立てますが、これはほどなく探題に察知されて失敗します。この時の後醍醐天皇は側近の日野資朝らが必死に「関与していない」と主張して代わりに流刑となったため、不問となりました。正中の変(1324年)と言います。

 後醍醐天皇の周辺には武力による討幕をいさめる勢力もいましたが(武士と戦って勝てるはずがないため)後醍醐天皇はあきらめず倒幕準備を進めます。しかし今度は密告によって鎌倉幕府に知られてしまいます。そこでも側近らが処刑・配流となりますが後醍醐天皇はひるまず、自ら京を出て笠置山に陣を張ります。

 しかし鎌倉幕府は20万をこえる勢力を送ってこれを包囲し、今度は後醍醐天皇も捕らえられて隠岐に配流となり、側近も大量に処刑されたため、さすがに倒幕運動も完全に収まったと考えられていました。元弘の変(1331年)と言います。

 ここで後醍醐天皇の長男である護良親王(もりよししんのう)が表舞台に出てきます。護良親王は鎌倉幕府打倒の令旨(りょうじ)を出し、もう一度倒幕勢力を呼び集め1332年暮れに吉野で挙兵します。駆け付けた勢力の中には元弘の変で敗れて行方をくらませていた楠木正成もいました。

 そして後醍醐天皇も名和長年に奉じられて隠岐を脱出し、船上山に立てこもりました。

 鎌倉幕府は六波羅探題への援軍として足利高氏(のちの尊氏)を中心とする大軍を再び送りますが、そこで何と足利高氏が幕府を裏切って後醍醐天皇側についてしまいます。足利家は鎌倉幕府においては北条家よりはるかに格上の有力御家人でしたが、長い間「格下」の北条家に牛耳られていたため、ここで天下を取るチャンスと考えたはずです。そのための権威として後醍醐天皇を担いだだけと考えるべきで、天皇中心の政治体制を望んでいたわけではありません。

 劣勢となった探題の北条仲時・時益は、持明院統の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を奉じて鎌倉を目指しましたが、途中で捕らえられて自害しました。光厳天皇らも捕らえられて京に連れ戻され、後醍醐天皇が返り咲きます。

 また鎌倉では新田義貞を中心とした軍勢に有力御家人が加わり、劣勢となった執権の北条高時以下、北条家一族・家臣数百人が自害し、ここに鎌倉幕府(北条家)は完全に倒れてしまいました。翌1333年に後醍醐天皇が親政を行う「建武の新政」が始まります。

 130年に亘って執権として鎌倉幕府を「それなりに」安定させていた北条家も、ここで全滅してしまいます。あとから出てくる北条早雲を祖とする戦国大名の北条家は、全く別の家系です。混同しないように後北条家とも言います。

 さて北条家の鎌倉幕府が倒れた背景は、格下の御家人だった北条家が源家、次いで摂関家、さらには天皇家の権威を利用して保っていた権力が、さすがに「制度疲労」を起こしたと考えるしかありません。
 
 そこを巧みに格上の足利高氏が突いたことになり、まもなく室町幕府を開きます。そこで一時的に担いだ後醍醐天皇とは「根本的に考え方」が違い、すぐに対立することになります。

 ここで後醍醐天皇も、とにかく天皇自ら親政を行えば日本中が従うものと考えていたようで、そこには具体的な政治ビジョンが何もありませんでした。また、とりあえず支えた武家勢力も、期待した恩賞もほとんど貰えず「建武の新政」は短期間で瓦解することになります。

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