2019/11/01(金)

12時27分43秒

闇株新聞

世界の出来事を独自の見解で読み解く 刺激的金融ブログ

検索

■闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。■

闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。

■闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。■

闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。

南北朝時代における天皇家  その5(最終回)

| 歴史・宗教編 | 2019年11月01日 |

 ここで南北朝時代における南朝と北朝の経済的基盤について少し書いておきます。

 もともと天皇家は広大な荘園(御領)を保有していましたが徐々に武家勢力に奪われ、戦国時代の終わり頃にはほとんどなくなってしまいました。それでも南北朝時代の初め頃はそれなりの荘園(御領)が残っていたはずですが、ほとんどは室町幕府が後ろ盾となる北朝のものとなりました。

やがて北朝の荘園(御領)も室町幕府や全国の守護大名に奪われていくことになりますが、そもそも南朝は最初から経済的基盤がなく、やがて衰退していくことになります

 ずっと後年の1911年に明治天皇が南朝を正統としたため(その間に三種の神器が南朝にあったため)、現在の系譜には後醍醐天皇から後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と南朝の天皇が連なり、並立していた北朝の天皇が「傍系」のように扱われています。

 ところが正統とされる南朝は後醍醐天皇の時代はともかく徐々に衰退し、やがて南朝に関する記録も散逸して活動内容がよく分からなくなり、1392年に後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して三種の神器を引き渡した後は、その後の系譜もわからなくなったまま現在に至ります。

 そしてその「歴史に埋もれてしまった」南朝ですが、まず後醍醐天皇には護良親王以下たくさんの皇子がいました。「建武の新政」では、それらの皇子を全国各地に派遣して地方政府の長として全国を支配する構想だったようです。

やがて後醍醐天皇が足利尊氏と対立するようになると、そのままの体制で室町幕府や全国の有力武将と戦うようになりましたが、九州地方を平定し10年以上も地方政府を維持していた懐良親王(かねよししんのう)を除いてすべて打ち負かされてしまいました。ただ皇子全員が戦死あるいは自害したわけではなく生き延びた皇子も多く、その後の南朝の系譜をさらに複雑なものにしています。

 後醍醐天皇の第7皇子である義良親王(のりよししんのう)は奥州に派遣される途中で船が難破し、伊勢に吹き戻されたためやむなく吉野に戻っていました。そのまま後醍醐天皇が亡くなる直前に譲位されて後村上天皇(在位1339~1368年)となりました。その時点で吉野にいた唯一の皇子だったからです。

 後村上天皇の時代には、先週書いた室町幕府において足利尊氏・高師直と足利直義が対立した観応の擾乱(かんのうのじょうらん、1349~1352年)や、それに続く北朝三上皇の拉致により、南朝が一時的に勢力を拡大した時期も含まれます。

 後村上天皇は1348年に早くも吉野を捨てて賀名生(あのう)に移っており、さらに河内金剛寺や住吉などを転々としますが、決して逃げ回っていたわけではなく反室町幕府の勢力を集めて何度か京にも攻め入っていました。

 しかし何といっても経済的基盤が乏しいため徐々に勢力を失い、1363年には拉致していた三上皇と皇太子を帰京させ、1368年に41歳で亡くなりました。また足利尊氏はそれ以前の1358年に亡くなり嫡男の義詮が2代将軍となっていました。

 さて後村上天皇の治世の終わり頃から、残っている南朝に関する記録がさらに少なくなってしまいます。後村上天皇の皇子である長慶天皇についても、ずっと皇位に就いていたかどうかが確認できず、1911年に明治天皇が南朝を正統とした後も皇位認定されず、やっと1926年に詔書により第98代・長慶天皇(在位1368~1383年)として加列されました。

 従って長慶天皇については「ほとんどわからない」となりますが、後村上天皇の治世には何度かあった北朝との和睦交渉がぷっつり途絶えているため、北朝に対しては強硬論者だったと推測されます。

 ただ経済的基盤がない南朝の弱体化は加速しており、一時は京の近くまで進出していたものの徐々に押し戻され、再び吉野の山奥まで後退を余儀なくされました。

 長慶天皇は1383年に弟の後亀山天皇に譲位し、しばらくは上皇として院政を敷いていたはずですが、1385年を最後に一切の記録が残っていません。これはその頃になると南朝内部にも北朝との和睦を主張する勢力が主流となり、北朝に対して強硬論を貫く長慶天皇(あるいは上皇)が徐々に支持を失っていったように思えます。その後の長慶上皇についてはほとんどわかりませんが、南北朝統一後の1394年頃に亡くなったとされています。

 そして後亀山天皇ですが、その頃の南朝は辺鄙な吉野周辺だけの「地方政権」となっており、3代将軍・足利義満のもとで隆盛を極める室町幕府との差(とくに経済格差)は絶望的に大きくなっていました。後亀山天皇はやがてその義満に主導されて北朝の後小松天皇に譲位し、三種の神器も引き渡してしまいました。

 この際、義満は再び「両統迭立」を約束していたようですが、もちろん完全に反故にされ、その後は現在に至るまで北朝の天皇が続き、南朝は歴史の中に埋没してしまいました。

 ここで室町幕府は1368年に10歳で3代将軍となった義満の時代に飛躍的にその勢力(とくに経済的基盤)を拡大させることになります。その背景は義満が成人するに従い全国各地で徴税権を含む各種行政権限を持つ守護大名を巧みに競わせ、時には陰謀でその勢力を削ぎ、これら守護大名の勢力・財力を幕府のもの(というより義満自身のもの)としてしまったからです。

 さらに義満は明との交易(勘合貿易)による莫大な利益も独り占めしています。室町幕府が教科書にある「有力守護大名による集団指導体制」となるのは義満の死後のことです。

 義満は1394年に将軍の座を嫡男で8歳の義持に譲って出家しますが、もちろん権力はすべて握ったままでした。そんな義満は、室町幕府が後ろ盾となっていた天皇家(北朝)に対しても高圧的な態度をとり、何かと介入するようになります。

とくに北朝5代・後円融天皇との関係が最悪で、後円融天皇は1382年に6歳だった皇子の後小松天皇に譲位して上皇となりますが、義満と一切面会せず遠ざけたままとなります。

 後円融天皇(上皇)がそこまで義満を嫌った主な理由は、義満は御所や後宮にも自由に出入りして数多くの中宮や後宮との不義が疑われていたからです。その中には後小松天皇の生母である三条厳子(たかこ)も含まれていました。これも義満がいまだに歴史の表舞台に出てこず、大河ドラマの主役にもなったことがない理由です。

 さすがに義満もいろいろと後円融上皇のご機嫌を取ろうとしますが、その関係は最後まで修復されることはなく、また後円融上皇の院政も全く機能しませんでした。後小松天皇は完全に義満の傀儡となっていたからです。

 そして1392年に北朝6代・後小松天皇が南朝の後亀山天皇の皇位も引き継ぐ形で100代・後小松天皇となり、天皇の系譜が再び統一されました。繰り返しですが明治時代の1911年になってから南北朝時代に三種の神器を保有していた南朝が正統とされたため、北朝の後小松天皇が(正統となった)南朝から皇位を譲られた形式になっています。

 そして本来の南朝である後醍醐天皇から後亀山天皇までは正統な天皇の系譜に組み込まれ、その間の光厳天皇から後円融天皇までは北朝天皇として天皇の系譜と別に分けられて現在に至ります。

 大変にややこしくなりますが、これが南北朝時代の現在に至る「正式の解釈」となります。わかりやすく言えば北朝が(1911年に認められた)南朝の正統性を引き継いだまま現在に至ることになります。

 一方で完全なる義満の傀儡となった後小松天皇は、1408年に義満が51歳で急死すると法皇の呼び名まで送ろうとします。しかしこれは何かと義満とソリの合わなかった嫡男の4代将軍・義持が辞退し、それ以後は天皇家と室町幕府の「異常な近さ」は解消されます。

 義満は義持の弟の義嗣(よしつぐ)を偏愛しており、後小松天皇の皇太子として次の天皇にしようと考えていたとの説があります。いわゆる義満の皇室簒奪(さんだつ)計画ですが、当時の後小松天皇はすでに完全に義満の傀儡となっていたため、わざわざ皇室を簒奪する必要もなかったはずです。せっかくの天皇家の権威をかえって落としてしまうことになるからです。

 つまり義満の皇室簒奪計画とは、後世の歴史家が義満を必要以上の悪者に仕立て上げるために作り出したものと考えます。ただ実際には義満は義持に暗殺されたはずです。

 さてそれでは埋没してしまった南朝(くどいようですが後醍醐天皇から後亀山天皇までの吉野を拠点とした南朝のことです)の末裔はどうなったのでしょう? 南北朝統一後の南朝は後南朝と呼ばれますが、その後も後南朝はちょくちょく歴史に登場します。

 その代表的なものは1443年に日野有光らが後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入し(暗殺は未遂)、三種の神器の1つである剣と御璽(ぎょじ)を奪い、南朝皇族(たぶん自称です)を担いで南朝を再興しようとした禁闕の変(きんけつのへん)ですが、すぐに室町幕府に平定されてしまいました。

 そして応仁の乱(1467~1477年)以降は、後南朝の存在もほとんど消えたまま現在に至ります。明治維新の際、後南朝の末裔で長州藩が匿っていたとされる大室寅之助が明治天皇と入れ替わったとの説もありますが、もちろん都市伝説の類です。明治維新を主導した岩倉具視らが権威の拠り所とした天皇家の正統性が、将来的に少しでも疑われる恐れのある行動をとったとは思えないからです。

 つまり南朝(後南朝)は文字通り歴史から消えてしまったことになりますが、その末裔が現在も日本のどこかで生存している可能性はかなりあるはずです。

(これで完結)

■闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。■

闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。

■闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。■

闇株新聞はThe Stray Timesに変わりました。